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(5)宗教と音楽

日本で暮らす現代人は日常生活で「宗教」とあまり関係のない暮らしをすることが多いせいか、音楽が宗教と関係があるといっても「?」と思われる方が多いでしょう。
あるいは、音楽と宗教との関係というとすぐにバッハなどの「宗教音楽」を連想される人も多いかもしれません。
確かにこの連想自体が間違っているとは言えませんが、音楽と宗教の関係というのは「たったそれだけ」の関係でもないのです。
例えばこういう言い方をすればわかっていただけるでしょうか。
「宗教と関係のない音楽はあるかもしれないが、音楽のない宗教は存在しない」

キリスト教には、ご存知のようにプロテスタントでは讃美歌がありますし、カソリックでも聖歌というものがあります。古く中世時代にはグレゴリオ聖歌というものもありました。
そして、仏教にも声明やお経があり、私たちは、数々の仏事のたびにこの「お経」が演奏されるのを耳にします。
「…? お経が演奏される?」
ひょっとしたら、この「お経が演奏される」という言い方に違和感を感じる人も多いかもしれませんが、仏教の教義には「お経」はまさしく「音楽」と位置づけられていますし、お寺によっては「お経」は鐘や太鼓などの楽器と一緒に唱えられるところもあります。
それでは、イスラム教はどうかと言えば、そこにもまさにコーランという「祈り」の音楽が存在しています。
イスラム教の教典であるコーランが節をつけて信者同士のユニゾンで毎日、一定の時間に世界中で一斉に「歌われる」姿は、仏教での「お経」やキリスト教の「讃美歌」と、その意味において何ら変わりはありません。
しかも音楽は、こうしたメジャー宗教だけでなく、ありとあらゆる新興宗教にも存在しています。
ひところ日本中を騒がせた「あの新興宗教」も、プロ音楽家が参加して「音楽」をプロパガンダとして作り続けたことは記憶に新しいところです。

では、なぜそうなるかというと、音楽とはそもそも何かということと宗教とはそもそも何かということを考えれば自ずとその理由も明らかになってくるのです。

人間が元々暮らしていた原初の時代に人が一番畏れたものは「自然」だったはずです。人の力など自然の力の前にはひとたまりもありません。そんな自然の怖さと常に向き合っていくために、それを恐れ敬い静めるために人々は「祈り」、その祈りの中にさまざまな「音」を取り入れていったと考えられます。
それは「声」だったり、ものを叩く音だったり、ものをこする音だったり、吹く音だったりしたわけで、それらが現在の楽器の元になっていたことも容易に想像がつくでしょう。
問題は、その「音」を聞かせる相手です。
けっしてそれは私たち人間などではなかったはずです。
私たちの「祈り」の先にあるモノは人が敬い畏れる「異界の存在」、まさしくそれが「神」だったのではないでしょうか。
つまり、ここで理解しなければいけないことは、「祈り」は音楽そのものであり、宗教そのものだったということです。
人が祈るのは「神(=異界の存在)と対話」をしたいからです。
ですから、その「祈り」がより「神」に届くように声だけでなくさまざまな方法(=楽器)で「音楽」として行われるようになったのも自然な流れだったと思います。
祈りは異界とのコミュニケーションであり、それはすなわち音楽によるコミュニケーションに他なりません。

先ほどのバッハですが、バッハの職業はプロテスタント教会のオルガニストでした。
このオルガン(パイプオルガン)という楽器は、実は、人間の耳には聞こえない音まで出すことができます。
人間の耳が聞こえる可聴範囲をはるかに越える低い音や高い音を出すことのできる楽器です。
何のためにこんな楽器が存在しているのでしょうか?
人間が聞こえない音まで出す必要が一体どこにあるのでしょうか?

実は、この楽器のポイントは、ここにこそあります。
「神とのコミュニケーション」に必要だからです。
バッハの音楽は「人と対話する」ために作られた音楽ではなく、まさしく「神と対話する」ために作られた音楽だったのです。
この考えをさらに発展させると…。何が起こるのでしょうか?
ここが、最も面白いところです。
「音楽は、『異界の存在』だけではなく、人間の内部にある『異界』、つまり、人間の細胞にだって働きかけることができるのではないだろうか?」
そう考えると、「音楽」と「医療」のコミュニケーションも可能になってくるはず、と考える人も当然出てきます。
そうやって「細胞レベル」「分子レベル」での音楽と医療の関係を真剣に研究している科学者は世界中に大勢いるのです。
これこそが驚きではありませんか?

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(4)動きと音楽=イメージが動きを作る

いつの頃からでしょうか、スポーツ選手にイメージトレーニングが欠かせなくなったのは。
ゴルフの選手がスイングする前に自分の打った球の軌道や高さ、スピードなどをしっかりとイメージしてそれを実際に行う。あるいは、イチロー選手のように、打席に立つ前に自分のスイングの形だけでなく相手ピッチャーのクセや配球を読み、自分が今何をしなければならないかを適確に判断してその通りのバッティングを打つ前にイメージした上で打席に入り、確実にそれを実行する。
もちろん、何事もイメージ通りにできれば世話はないのですが、スポーツの場合、実際の結果がイメージ通りになる確率が高いほど一流選手と言われるわけです。
これは音楽家でもまったく同じことです。
演奏家は、それが何の楽器であれ(あるいは指揮者であれ)指を楽器の上で動かす前に出すべき音をイメージしています。もしそれができないとしたら、音楽家としては失格かもしれません。
なぜなら、音楽家も先ほどのスポーツ選手と同じように、結果(しかも高いレベルの結果)をイメージしてそれを実行する能力を培うために日頃から鍛錬、訓練、練習を怠らないようにしているからです。
自分はこういう球を打ちたい、自分はこういう音を出してこういう演奏をしたいというイメージがない人は、ゴルフクラブや楽器に触る資格すらないかもしれません。

私がそこまで言い切れる理由の第一は、スポーツ選手にしても演奏家にしても、いっけんとてもフィジカルな身体の動きをやっているように見えますが、実際に身体を動かすところは手でも足でもなく脳だからです。
人の手や足は脳からの命令で動いているだけです(意志に関係なく動く突発的な反射も中枢神経からの指令なしには動きません)。
それが証拠に私たち人間は、時にどうしようもないほど「あがり」ます。
この「あがる」という状態を作り出しているのも脳です。
本番でパニックになって動かなくなるのは手や足(音楽家の場合なら指)、身体、そして心臓がパックンパックンしてくるわけですが(心臓の弁の動きも手足と同じフィジカルな動き)、その元を作っているのは明らかに脳です。
もし脳が何も考えないで本番に臨めれば人があがることはほとんどないでしょう。人は、「絶対に失敗できない」「失敗したらどうしよう」と自らの脳が自らの身体をパニックに陥れているのです。
ということは、逆に言えば、どんな一流の演奏家でもあがる可能性は十分あるわけですし、パニック障害を患う人のほとんどが「完璧主義者」だというのも、このことからある程度頷けます。

妻の恵子が脳卒中に倒れ半身が麻痺してしまった時、私はある人にアドバイスを仰ぎました。
恵子よりも早く同じ病気に罹患し、今はもう社会復帰を果たしていた友人です。
彼のことばはものすごく新鮮で、かつ私たち夫婦のリハビリにとても有意義なものでした。
その彼のアドバイスの中でもとりわけ印象的だったのが次のような彼のことばでした。

「みつとみさん、この病気のリハビリは楽器の練習と同じだよ。脳卒中というのは、脳から命令が末端の神経まで行かずに途中でそのネットワークが寸断されてしまったの。例えば高速道路の一部が壊れてしまって目的地まで行けないような状態を想像してみてください。でも、高速道路が壊れて通れないからといって目的地まで行くのが不可能になったわけじゃないことも知る必要があるんです。迂回路というのは幾つもあるはずなんです。もしかしたら時間は十倍も二十倍もかかるかもしれませんが、迂回路を作ってやればちゃんと手足は動くようになるんです。その迂回路を作るための訓練がリハビリ。これは、楽器の練習と同じなんです。世の中に生まれた時から楽器ができる人なんて一人もいません。みんなゼロから指の動き、手足の動きを覚え、そして最終的に楽器をマスターできるようになるんです。でも、正しい先生に習わないととんでもないことになりますよ。正しいイメージを教えてくれる先生に習って楽器を練習していかないといつまでたっても上手にはなりませんからね」。

以来、私は妻の恵子にリハビリ訓練時、常に「正しいイメージを持って身体を動かすように」と言うようになりました。
そして、彼はこうも教えてくれたのです。
「誰でも自分の身体にちゃんと先生を持っているんです。右手右足は動かないかもしれないけど、左手左足はちゃんと動くでしょ。だったら、その動く左手左足をしっかりと観察してイメージを作っていけば良いのです」。

この教えを私と妻は未だに守り続けています。

(3)(記憶と音楽)

お年寄りが、子供の頃や若い時などの遠い過去のことはしっかりと記憶しているのに、今朝食べた食事の中身を忘れたり、昨日会った人との約束を忘れたりすることによく皆さんは気がつかれるでしょう。
だんだん年を取ると「もの忘れがひどくなって…」とボヤかれる人もたくさんいらっしゃいます。
この「記憶」のメカニズムと音楽というのはけっこう密接な関係があります。
その説明の前に、まずは一つの「仮説」です。

人間の記憶には長期記憶と短気記憶があって、それぞれを記憶するための脳のメカニズムはそれぞれ異なっているという考え方があります。つまり、長期記憶というのは、パソコンのハードディスクのようなものに記憶がファイルとして「蓄積」されていて、それがあるキッカケで取り出せるような仕組みになっているというメカニズム。
一方、短期記憶というのは、実際は「記憶」ではなく、脳の神経回路のリアルタイムな「認知作業」そのものだという考え方です。パソコンに例えるならば、長期記憶がハードディスクに収納された「ファイル(=記憶)」ですし、短期記憶は、脳の神経回路が働いているかどうかという問題で、つまりはメモリーに匹敵にします。

ですから、認知症の方というのは、けっして「記憶」がなくなったわけではなく、脳のネットワーク作業、つまり「認知作業」に支障をきたしているだけですから昔のファイル(=記憶)はしっかりと脳の中に残っていてもけっして不思議ではありません。
ところが、さっき言われたことをすぐに忘れてしまうのは、実際は「忘れてしまった」わけではなく「認知作業」そのものの働き(シナプスでつながる神経回路の働き)がうまく行っていないわけで、「言われたこと」自体が認識できていなかったかもしれないのです。
例えば、自宅から駅までの道がわからなくなり迷子になってしまうといったことは認知症の患者さんにはよく起こります。でも、これも「道順」というきちんとしたファイルが脳からなくなってしまったと考えるよりも、駅から出てあそこの家を曲がって、コンビニを通り過ぎて、なんとかさんの家からの坂を降りていくと駅というネットワークとしての「認知作業」をきちんと行うためのキッカケがどこかで欠落してしまい、「道順」という認知ネットワークが動作しないと考える方が理にかなっています。
つまり、駅に行くまでのそれぞれのポイントにあったキッカケが認知ネットワークから追い出されてしまい結果道に迷ってしまうのかもしれないのです。
つまりは、パソコンのメモリートラブルに似ています。

でも、こんなこと健常者の私たちでもよく起こります。疲れ過ぎていたり何か別のストレスで脳が正常に働かなくなったりする時に起こったりします。
つまり、そんな場合、健常者の脳の中でもドーパミンとかセレトニンとかいった神経と神経の軸索を結ぶための神経伝達物質の量が一時的に足りなくなり正常な神経回路のネットワーク作業が行われなくなってしまうからです。これが恒常的に起こるのが認知症(あるいは、高次脳機能障害)だという風にも考えられます(認知症にもいろいろ種類がありますからこれで全てが説明されるわけではありませんが)。

これはまだ、あくまで仮説に過ぎませんが、この考え方で「認知症」の患者さんや多くのお年寄りと接すると、この記憶や神経ネットワークの働きに音楽が果たす役割はけっして少なくないと感じられるはずです。
人は、ある重要な情報を「記憶」として固定するためにかけ算の九九のようにゴロを使って覚えたり、歴史の年号を覚えたり、電話番号などさまざまな記憶しにくい情報に音楽的な要素を結びつけることで「記憶」を脳の中に固定しようと努めます。
音楽的なキッカケ(リズムやメロディなど)が神経伝達物質の代わりをしてくれるのです。
ある意味、日本の俳句、短歌、和歌も五七五のリズムの中で「うた」を作りその中にさまざまな情報をインプットする方法だったのかもしれません(この方法を使って幕府の隠密が虚無僧に扮し尺八のフレーズと共に歌の中に情報を忍ばせて暗号として持ち帰ったという説もあります)。

だとすれば、この方法は、現在深刻な社会問題になっている認知症の人たちの徘徊によるトラブルを解決する重要なヒントになるかもしれません。
例えば、「でんわばんごう、でんわばんごう、…」とリズムをつけてその後に自分の電話番号をつなげて覚えるという手法を各家庭でやれば、そのリズムと「上の句」と「下の句」のリンクで情報を認知症患者の人たちから引き出すことができるかもしれません(あるいは、できないかもしれません)。

音楽のリズムには、本当に人間の身体が「抗う」ことのできないほどの力があるわけですから、この方法を実際に試してみる価値は十分にあると思います。
少なくとも、お金もほとんどかかりませんし、何よりもクスリの副作用は全くないわけですから。

(2)人はリズムで生きている=リズムの魔法

まず最初に、そもそも皆さんが、「音楽って何?」と聞かれたらどう答えられますか?
おそらく十中八九皆さんの頭の中には、「ビートルズだとかラップだとか、クワタだとかバッハだとかの具体的な曲名やアーティストのことが思い浮かぶはずです。
つまり、現在、人が考える音楽というのは、(音楽=音楽作品)であることがほとんどなのです。

きっと音楽は何と聞かれて「毎日歩いているリズムです」などと答える人などいないと思います。
あるいは、「昔子供時代にお母さんの背中で聞いた、何だかよくフレーズも覚えていないような『子守唄』です」と答える人も稀だろうと思います。あるいは、そんな答えはまったく返ってこないかもしれません。
それぐらい、現代人にとって音楽とは具体的な「演奏」だったり、それを演奏する「アーティスト」だったり、そこから流れて来る「曲」だったりするのです。
ですから、「私は誰々が好き、私はあの曲が好き」という風に、音楽を「嗜好品」と考える人が多いのです。
しかし、このように音楽を趣味や嗜好品として考えるようになったのは、せいぜいベートーベン以降のたかだか二、三百年ぐらいの話なのです。それ以前の長い歴史の中で人類にとって音楽というのは、もっともっと違った風に考えられていたのです。

 私は、プロの音楽家ですので、いろんな人のために(あるいはいろんなシチュエーション)で演奏をします。
それは、「音楽愛好家」の人たちばかりでなく、幼稚園や保育園での演奏だったり、介護施設でのお年寄り相手の演奏だったりします。
でも、こうやって年齢も環境もまったく違うさまざまな人たちを相手に演奏をしていると「あること」に気がつきます。
それは、「音楽はことば以上に心と身体をつなぐコミュニケーションの道具なんだ」ということです。

ここが一番のポイントなのですが、音楽を「音楽作品」と定義するのではなく、「コミュニケーションの道具」と定義するとこれまで見えなかったさまざまなモノが見えてきます。
例えば、子供たちとおしゃべりする時とお年寄りたちとおしゃべりする時に使うことばや表現は同じでしょうか。きっと違うと思います。
十歳にも満たない子供と八十代の方に何か具体的なモノの説明をする時使うことばはきっと違うのではないでしょうか。ことばだけでなくことば使い、イントネーション、テンポやリズムも違ってくるかもしれません。

なぜそうするかと言えば、私たちは、無意識に十歳以下の子供と私の間に共通のことばは一体何だろうか、どういう単語を使えば子供たちは理解してくれるだろうかとまず「意思の疎通=コミュニケーション」を考えるからです。
子供と老人では生きてきた年数が違いますから自ずと「記憶の蓄積」が違っています。ということは、それぞれ「通じることば」が違うということになります。
となると、ことばだけでなく、音楽によるコミュニケーションの方法も当然異なってくるのではないでしょうか。

幼稚園で演奏する曲と介護施設で演奏する曲は違います。
そんなの当たり前じゃないかと言われるかもしれませんが、この違いはかなり重要ですし、ある意味この違いこそが「音楽」の本当の意味を私たちに教えてくれるものなのです。

例えば、幼稚園や保育園で演奏すると必ず「受ける曲」というものがあります。クラシックのレパートリーでロシアの作曲家ハチャトゥリアンという人が作った『剣の舞』という曲があります。とても早いテンポで激しいリズムの良い曲です。学校の鑑賞教材にも入っている曲ですので、おそらくどなたもこの曲に一度や二度触れたことはあるはずです。
でも、この曲には「曲を知っている」とか知らないとかにまったく関係ないとても不思議な力があるのです。
この曲を聞くと、子供たちはまるで魔法にでもかかったかのように狂気乱舞して踊りだします。身体が勝手に動いてしまう。そんな感じです(童話の『ハメルンの笛吹き』の話を思い出す方もいらっしゃるかもしれません)。

とはいえ、別に、この『剣の舞』だけがそんな魔法を持っているわけではありません。例えば、多くのアニメソングなどのノリの良いテーマソングを聞いてもきっと子供たちは同じような反応をするでしょう。
つまり、ここでのポイントは、音楽の「テンポ」とか「リズム」なのです。

この音楽のテンポとリズムを利用して人間の身体を動かすのが「行進曲」という音楽の役目です。
「人を一定のリズムで秩序だって歩かせていく」目的で行進曲は作られ演奏されます。
もし目的が「歩く」ことではなく、「走る」ことだったら行進曲のテンポははるかに早いテンポになっていることでしょう。きっと『剣の舞』ぐらい早い曲でないと人は「走る」ことはできないのかもしれません。

そして、もう一つ重要なポイントが「リズム」です。
全ての行進曲は二拍子でできています。なぜ二拍子かは単純な理由です。人間が歩くために必要なビート、リズムは、右足、左足と順番に交互に出していくために必要な「1、2」というリズムだからです。
これが「ワルツ」のように「1、2、3」というリズムだったら人は歩くことができません。きっと多くの人たちは行進するどころかたちどころに「転んで」しまうでしょう。

脳卒中の後遺症のために右半身が麻痺してしまった私の妻は、杖を使って歩く時、時々歩けなくなってしまいます。足がまったく止まってしまうのです。
その時彼女の脳の中で何が起こっているかと言えば、「足を右、左と交互に1、2というリズムで出していきなさい」という命令を出せなくなっているか、あるいは、命令を出しても足の方までそれが届いていないかのどちらかの状態です。

この状態を打開するための方法は一つです。
「歩く」というリズムを身体が意識的に行っていくための「トリガー」を出してあげなければなりません。つまり、それは私という第三者であったり、妻自身の脳が「1、2」という「歩くリズム」を作っていくことなのです。
私は、立ち止まり「固まって」しまった彼女に向っていつも「1、2、1、2」と歌い続けます。すると、彼女自身も彼女の頭の中で「1、2」のリズムを作っていこうとするのです。

時間はかかっても、いつも結果的に彼女の「歩行」は再開します。
つまり、幼稚園の子供たちが『剣の舞』のリズムに逆らうことができずに自然に踊りだしてしまうのと同じ原理です。
私の妻も「1、2」という人間の身体がもともと持っている自然の二拍子のリズムを取り戻し、その結果「歩くことが」できるのです。

これは、人のさまざまな病気にも応用が効く「音楽の力」の一つです。
パーキンソン病も自閉症も身体と心のコントロールがきかなくなってしまう病気です。パーキンソン病は主に身体の動きが、自閉症は主に心の動きが「閉じ込められた」結果起こる病気です。
私の妻の身体に起こった麻痺も、ある意味、脳卒中という病気によって身体の動きが閉じ込められてしまっていると言っても良いでしょう。
こうした「閉じ込められてしまった心と身体」を解放する役割を音楽は持っています。というか、これが音楽のもともと持っている「リズム」や「テンポ」といった力の働きです。

こうした「音楽と人間の心と身体の関係」をもっと深く、より真剣に探ってみる必要があると皆さんは思われませんか。

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

プロフィール

みつとみ俊郎

Author:みつとみ俊郎
MUSIC-HOPEプロジェクトを主宰するみつとみ俊郎は、作曲家、フルーティスト、音楽評論家、指揮者として40年間日本、アメリカの第一線で活躍してきた音楽家。脳卒中に倒れた妻の介護をしながら音楽を医療、介護の現場で役立てるため、日々研究と実践に励んでいる。

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